《山口二矢烈士五十年祭報告記》
◎はじめに
山口二矢烈士への敬慕の想ひを語りたいと願つているのだが、まだ自分自身の中で整理がついてゐない。口を開いても、筆を握つても、激しい感情に流されるままになる。今しばらく時間を置いて、後日に語りたい。ここでは記録を述べるのみとする。
なほ、敬称については、山口二矢烈士を除き、全て省略した。ご海容を願ふ。
◎反共の鬼から護国の神へ
我が国民は昭和三十五年十一月二日、神の姿を見た。さらに二十日前の十月十二日、鬼の姿を見てゐる。山口二矢烈士である。
烈士は昭和三十五年十月十二日、売国奴の浅沼稲次郎を斬奸の刃によつて天誅を下した。そして十一月二日、練馬にある東京少年鑑別所で自決した。
浅沼の大罪については、今さら申すまでもない。この国賊を倒したことにより、我が国は赤色革命の脅威を取り除かれた。もちろん、天壌無窮の国体を戴く我が国において、赤色革命が成功することはない。赤色革命が起きなかつたのは、全て烈士の功績であるとはいはない。しかし、大きな功績があつたことは間違ひない。
烈士の功績は、元冦における鎌倉武士と同じである。世界最大最強の侵略主義覇権国家であつた元から、我が国を守つた大きな力は、神風であることはいふまでもあるまい。
では、何故、神風が吹いたのか。それは、日本が神国だからだ。神国だからこそ、八百万の神々の御加護があり、神風が吹いてくれたのである。しかし、神国だからといつて、何にもしないで、黙つてゐたのでは、神風は吹いてくれない。神風が吹いてくれたのは、亀山天皇様の祈りをはじめとする公武・官民・上下を超えた多くの国民の祈りがあつたことが大きい。
だからといつて、祈りだけで、国が救はれた訳ではない。神風が吹いてくれる前に敗北したり、戦ふ前に屈服したりするやうでは、話にもならない。神風が吹いてくれるまで、鎌倉武士による勇武なる奮戦があつたことを忘れてはならない。真摯な祈念と勇武な奮戦、この二つが神々に通じて、神風が吹いてくれたのである。
烈士は唯一人の力で、祖国の危機に際して、勇戦奮武した鎌倉武士と同じ……、いや、神風の役割を果たしたといつても過言ではあるまい。烈士は生きては反共と鬼となり、死しては護国の神となつたのだ。
前述した通り、烈士への想ひなどについては、ここまでとする。近いうちにあらためて紙面をいただき、思う存分に述べてみたい。
◎山口二矢顕彰会
山口二矢顕彰会は、烈士の大日本愛国党時代の仲間たちが結成した。祖国日本を愛する者の一人として、烈士に感謝と尊敬の誠を捧げるのは、当然のことだ。かつては先輩にあたる世代が中心であつたが、現在は後輩といふよりも子供の世代が多くなつてゐる。まもなく孫の世代になることだらう。この顕彰会が今日まで、墓参の世話をしたり、回忌法要を執り行つたりしてきた。
烈士の五十回忌法要が昨年の十一月二日、墓所がある寺院で執り行はれた。この法要の準備段階で、もつと正確にいへば数年前からになるが、烈士を敬慕する若者らによつて、五十年祭を斎行すべきであるとの意見が出てきた。五十回忌法要が滞りなく済んだことにより、五十年祭を斎行するんだといふ動きは、本格化した。
烈士の御誕生日である二月二十二日、山口二矢顕彰会をはじめとする有志が墓参した。墓前において、山口二矢烈士五十年祭を執り行ふため、山口二矢顕彰会を母体とする山口二矢烈士五十年祭事務局を正式発足させ、そのことを謹んで奉告した。
五十祭に際して、烈士を追悼顕彰するため、いくつかの計画を立てた。事業といふ呼び方が適切か不適切かを別にして、追悼と顕彰の事業を計画したといふことである。それは、御命日である十一月二日に五十年祭を斎行することを中核として、烈士の供述調書を出版すること、義挙当日である十月十二日に顕彰事業を実行すること、この二点を実現することであつた。
山口二矢顕彰会は「顕彰会」であり、「研究会」ではない。烈士の慰霊と顕彰を行ひ、烈士の思想と行動を後世に伝へるため、活動してゐる。さらには、烈士を冒涜する全ての言動に対しては、重大な決意を持つて対決する覚悟である。それが、山口二矢顕彰会なのだ。
◎『山口二矢供述調書』
烈士の供述調書を出版することについては、展転社の全面協力により、同社から『山口二矢供述調書』として出版していただいた。資料の提供など多くの協力をいただき、また出版の協賛もいただき、十一月二日に間に合はせることができた。
内容は、供述調書(昭和三十五年十一月一日分)、供述調書(昭和三十五年十一月二日分)、二矢の短い生涯―親の夢子の夢(父上の手記)、大空に会わん―二矢の死(父上の手記)、二矢忌(父上の手記)、あとがき(山口二矢顕彰会)である。烈士の二矢供述調書だけではなく、父上の手記も収録してあり、烈士の思想と行動だけではなく、人柄を知ることもできる貴重な資料といへる。
烈士の供述調書は、過去にも何回か発表されてゐるのだが、国会図書館などでも探すのが困難になつてゐる。今回の出版により、この点は完全に解消された。一人でも多くの方に読んでいただきたいと願つてゐる。
◎山口二矢烈士顕彰「売国奴を討て!」全国連帯愛国行動
山口二矢烈士の義挙から五十年となる十月十二日には、山口二矢烈士顕彰「売国奴を討て!」全国連帯愛国行動を全国各地の同志に呼びかけた。呼びかけ人は、桂田智司、坂田昌己、福田邦宏、舟川孝、細田政一、前谷祐一郎、森川照男の七名で、現在の愛国運動における最も行動的な中堅指導者である。
この檄に呼応した全国各地の同志らが集会、行進、演説会などを展開した。当日が連休明けになることから、連休中から行動することになつた。地域ごとに分散しての行動だつたため、単一の行動と見れば少人数だつたが、全国各地において展開できたことは大きな意義があつたと確信してゐる。
東京都では当日、中央区の常盤公園から千代田区の日比谷公園まで、徒歩行進を行つた。終点の日比谷公園には、義挙の現場である日比谷公会堂があり、その前での解散となつた。また、烈士が赤尾敏の演説を聞き、そのまま大日本愛国党の街宣車に飛び乗つたといはれてゐる数寄屋橋の交差点に近い千代田区の有楽町マリオン前では、長時間にわたる街頭演説会が開催された。
なほ、左翼諸君が当日、五十年前と同じやうな与野党党首演説会を日比谷公会堂において開催することを計画してゐたといふ。新聞が報じてゐた。だが、この集会は実現しなかつた。いや、「しなかつた」といふより「できなかつた」といふのが正確なのであらう。左翼諸君が、自分たちの大先輩の慰霊と顕彰を断念したのは、ある意味では「悲しい」ことである。左翼諸君の非情なる体たらくに比べて、我々は少数だつたとはいへども、全国各地での運動を展開できた。
さらに一言つけ加へるならば、十月十二日の行動では、国民儀礼において「戦没者および先覚志士の御霊」に対して黙祷を捧げるのではなく、「山口二矢烈士および浅沼稲次郎氏の御霊」に対して黙祷を捧げた。浅沼は憎むべき、討つべき敵であつたが、敢へて黙祷を捧げた。山口烈士の義挙当日は、浅沼の命日である。同じ日本人として黙祷を捧げることは、山口烈士の心に反しないことだと信じる。
顕彰事業ではないが、義挙の当日、義挙の時刻、僕らは義挙の現場に立ち会つた。十一月二日の下見のため、日比谷公会堂の壇上にゐたのである。偶然なのか、必然なのか。もちろん、その時、その場、黙祷を捧げたのはいふまでもない。
◎山口二矢烈士五十年祭
山口二矢烈士五十年祭は十一月二日午後六時から、日比谷公会堂において、千名を超える人々が参列した中で執り行はれた。平日にも関はらず、北は北海道から、南は九州から、全国各地から同志道友が馳せ参じてくれたのである。
式次第だが、司会は発起人の丸川仁が務め、開幕とともに事実上の開会を宣した。まづ開会に先立ち、発起人の桂田智司の指揮により、皇居遙拝、国歌斉唱を執り行つたり後、 先覚志士の御霊に黙祷を捧げた。そして、開会の辞を発起人の舟川孝が述べた。
太鼓の音が轟く中、斎主と祭員が着座、司会と典儀が交代して、山口二矢烈士五十年祭が開式した。斎主は福永武、祭員は高橋宏篤、大石真二、典儀は藏満順一といふやうに不二歌道会の皆様が奉仕してくださつた。裏方を取り仕切つてくれたのも、大東会館の細見祐介をはじめとする不二歌道会、大東会館学生寮の皆様であつた。
山口二矢烈士五十年祭は、始めに修祓、次に降神、次に献饌、次に祝詞奏上、次に遺詠を大東会館学生寮有志四名が奉誦。次に供述調書(抄)を崇城大学の森周作が奉読。次に神道夢想流杖術の演武を川名克実と神屋善四郎が奉納。次に山口烈士と縁が深い赤尾道彦、杉本カズ子と山田春湖、福田進からの祭電が披露された。
続いて玉串奉奠となり、斎主、祭主、親族として杉本尚武、来賓として山口烈士の本葬儀(同志葬)である「烈士山口二矢君国民慰霊祭」の発起人であつた志賀敏行(代理・吉田直紀)、山口烈士ら当時の若者を支援してゐた福田進(代理・福田邦宏)、大日本愛国党時代の同志であつた桑山照章、自衛隊官舎での友人(後輩)であつた神谷俊司、各地の発起人を代表して、北海道の前田伏樹、東北の坂田昌己、関東の三本菅啓二、甲信越の宮入三郎、北陸の森川照男、東海の黒崎忠彦、近畿の大島竜◆(「王」偏に「民」)、中国の田中弘幸、四国の谷田充、九州の福田雅光、参列者を代表して演武を奉納した川名克実と神屋善四郎が行つた。参列者は全員がそれぞれの場にて参拝した。
次に「青年日本の歌」を全員で合唱。次に撤饌、次に昇神となり、山口二矢烈士五十年祭は閉式した。太鼓の音が轟く中、斎主と祭員は退下し、典儀と司会は交代した。祭主の挨拶を岡田尚平が述べた後、閉幕となつた。
休憩の後、再び開幕。追悼講演を國學院大学神道文化学部教授の大原康男が行つた。次に閉会の辞を発起人の河原博史が述べ、聖寿万歳を発起人の阿形充規の先導により全員で三唱した。司会が事実上の閉会を宣して、山口二矢烈士五十年祭は滞りなく終了した。
◎自決の地へ
有志数十名は解散の後、大日本愛国党の街宣車を先頭にして十数台の自動車を連ね、「青年日本の歌」を拡声器から流しながら、練馬にある東京少年鑑別所に向かつた。いはゆる「練鑑」であり、山口烈士が亡くなった場所である。その正門において、黙祷、「青年日本の歌」合唱、聖寿万歳を執り行つた。
◎『山口二矢供述調書』出版奉告墓前法要
十一月十五日、祭主をはじめ事務局の役員が、山口烈士の墓所にお参りした。『山口二矢供述調書』刊行を墓前に奉告するためである。墓所が仏教寺院にあるので、こちらは仏式となつたが、僧侶の読経の中、墓前に奉告した。この墓前法要によつて、山口二矢烈士五十年祭の表立つた事業は一段落した。
◎をはりに
山口二矢烈士五十年祭に関する事業は全て終了した。「顕彰の事業は成功か?失敗か?」と問へば、成功となるだらう。しかし、「烈士の思想と行動を継承してゐるのか?」と問へえば、答へは厳しいものとなる。
「みんな、何をやつてゐるんだか」と、烈士は笑つてゐるはずだ。それは、五十年を過ぎた今でも、自分を敬慕する者たちがゐることを喜んでゐる微笑みである。
誉めてくれはしないが、喜んでくれてゐる。そう信じてゐる。
(『不二』平成二十二年歳末号より転載)